2024年12月8日
「ヨセフの正しさ」
マタイによる福音書1章18-25節 杉山いずみ牧師
マタイによる福音書はユダヤ人改宗者に向けて書かれており、ルカによる福音書はギリシャ語文化に親しんでいた人たち、ユダヤ人のみならずすべての人の救い主であるイエスさまが、弱くされた人たち、小さくされた人たち、罪人に近づいて福音を語ることが強調されて書かれています。マタイによる福音書ではヨセフを中心に降誕物語が書かれています。ルカによる福音書ではマリアに焦点が当てられています。
マリアの妊娠を知った時、19節「夫ヨセフは『正しい人であったので』マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。」とあります。婚約関係にあったマリアの妊娠に関してヨセフは身に覚えがなかったからです。交際関係にあって、身に覚えがあっても妊娠を告げると男性が逃げて行ってしまうという話は現代でもよく聞かれますが、ヨセフは身に覚えがありませんでした。もし、婚約者に処女の証拠が見られなかったら、「娘を父親の家の戸口に引き出し、町の人たちは彼女を石で打ち殺さねばならない。」(申命記22章21節)、また仮に襲われた場合でも助けを求めなかったなら石打ち刑です。助けを求めることができなかったと認められる場合には「その娘には何もしてはならない。娘には死刑に当たる罪はない。これは、ある人がその隣人を襲い、殺害した場合と同じような事件である。」(申命記22章26節)
マリアがどのような形で妊娠に至ったのかは聖書には詳しく書かれていません。
聖書は天使を通して「恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。」と語ります。ヨセフは恐れていました。マリアを石打ち刑にすることも、母子を受け入れ噂に晒され、後ろ指を差されながら生きていくことも、どちらも苦しい選択でした。もし、律法主義的に律法によって人を裁くのがヨセフの正しさであったなら、ヨセフはマリアを石打ち刑に引き渡したでしょう。けれども、ヨセフの正しさは律法主義的に人を裁くような正しさではありませんでした。律法の教えの中で一番大切な教え(申命記6章5節)「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」二番目に大切な教え(レビ記19章18節)「隣人を自分のように愛しなさい。」この二つの教えが律法全体を表していると言われます。この律法の根にある大切な教えに従い生きる正しさをヨセフは持っていました。
マリアを思い、ヨセフにできる最善の決断はひそかに縁を切ることでした。ヨセフは重荷から解放され、新しいパートナーと生きていくことができます。マリアは石打ち刑にはならないかもしれませんが、未婚の母として差別と偏見に晒されながら、家族の養護を受けられなければ、物乞いをするか、身売りをするしかないような社会に放り出されることになります。
夢に現れた天使は言いました。「恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を生む。その名をイエス(主は救い)と名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」と。ヨセフは夢の中に顕われた天使が主の使いであると信じ、その言葉を受けとめ、マリアを妻として迎え入れました。
ヨセフの正しさによって母子の命が守られました。そして、イエスさまはアブラハムの系図、ダビデの系図に加えられることとなりました。「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、神我々と共におられるという意味である。」(1章22-23節)
人生の壁にぶつかり、恐れを感じ、逃げ出したくなる時にも主は共にいてくださいます。
インマヌエルの主がわたしたちの元に来てくださったことを感謝し、受け入れたいと思います。今、苦しみや恐れの中にいる人の心にインマヌエルの主がこられることを祈ります。
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